
コーヒーを淹れて飲む
自分でコーヒーを淹れて飲めることがちょっとした好きで幸せな時間。 コーヒー豆を挽いて、鉄瓶でお湯お沸かし、お湯の温度が落ち着いたところで淹れていく。コーヒーの風味が舌の上に広がって、美味しい。 コーヒーを知ったのはまだ自分で淹れて飲む以前、当時よく読んでいた赤川次郎氏の推理小説だった。私が生まれ育った町にはなかった都会の描写が小説の中で描かれ、憧れの世界だった。喫茶店、映画館、ちょっとした街にならあるものが、私の育った環境にはなくて憧れだった。特に印象に残ったのがコーヒーが出てくる描写。喫茶店で厚切りトーストとかフレンチトーストと一緒にでてくるコーヒー、コーヒー一杯で店にい続けるとか、自分でコーヒーを淹れるとか、とにかくコーヒーのシーンが私にとっての都会の描写だった。 自分でコーヒーを淹れ始めたのは大学に進学してから。最初はスーパーで売ってる、すでに挽いてあるコーヒー豆を買って、コーヒーの淹れ方的な本を見ながら淹れていた。 コーヒー豆からコーヒーを淹れたのは社会人になってから。当時住んでいた近所の、以前あったトミー館に通い始めてから、コーヒーの話

発作的に
発作的にツリーが見たい、しかも屋外の。ときどきこの発作的に見たいことが発動。久しぶりの見たい発作だった。

住んでいた場所の今
私が高校生まで住んでいた場所。今は何もなくて、電柱が家のあった場所を教えてくれる。 過去の場所の今。 荒涼として見えるが、玄関出たら天の川が見えたし、外遊びするには季節問わず楽しんでいた。学校や町が遠いのが不便だったけれど。 自然の美しさと厳しさが体に染み付いている。

見ていることと写っているもの
同じ平面作品でも、絵を見ることと写真を見ること、どう見ているだろうか。 写真を見ていて、ずっとその作品の前で見てしまうのは、撮った人が実際のところ写真を通して何を見ようとしているのか、ここがとても引き込まれる。作品の前ではっきりとした答えは浮いてこない。ただ漠然としたなにかしらの共通項があって、それが日々の心のどこかでひっかかっているもの。それを写真を見ながら自分の頭の中に戻りまた写真からそれがなんなのか探していく。 写真は被写体のみならず眼差しも写す。

12月の夕暮れの空
December 7, 2021 冬至に向かって、朝は遅く夜は早い。12月の凜とした寒い空気の薄明の空に三日月と金星。綺麗この上なし。札幌の空でも綺麗だから、人工光が気にならない場所でなら、惹かれるように見てしまうくらい綺麗だろう。 今日の午後はゆっくりした。どうも夢中になって仕事をすると呼吸を忘れてしまうようで、身体がばっきばきになる。よくない。全集中の呼吸とやらを常時できるようになりたい。